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体言止め

by tajima

ある情報誌の監修を依頼されて、原稿をチェックしていたらことごとく体言止め始まりで驚いた。
「5月の爽やかな風が吹き抜けるリビング。」
「暖炉のある家で暮らすのが夢だったM夫妻。」
「生まれて初めて行った沖縄。」
文面はちょっと変えてあるけど、5、6人のライターが書いた20本近い文章の出だしがみんなこんな感じ。
それぞれのライターにどう指示があったのか分からないけれど、さすがに続くと気持ち悪くなる。
文頭だから目立つし。

一つ思ったのは、必然性のある表現ではなさそうということだ。
次の文章とのつながりもあるかもしれないが「リビングに5月の爽やかな風が吹き抜けた」「M夫妻は暖炉のある家で暮らすのが夢だった」などといくらでも文章を組み替えられるし、意味も伝わる。

体言止めの良し悪しってあって、リズムや情感を生むというのが大きなメリットと言えるし、それは納得している。僕も使う。 
デメリットは文章によっては乱暴な印象になるということ。
極端に表現すると「ワイン。」というのと「ワインが飲みたい。」というのの違いかな。
お店や家で他人から言われるとしたら、どっちの言葉を丁寧に感じるだろう。
大抵の人は多分後者かなあと思う。
 例えば「1980年代半ば、保守的な英国北部の炭鉱町を舞台にした青春ドラマ『リトル・ダンサー』。」という文章があったとする。
本当なら「~した青春ドラマ『リトルダンサー』は、人生の尊さを伝えます」とか、何かしらの続きがあるはずなんだよね。
体言止めって基本的に不完全な文章だと思う。
大切な何かを欠いている。

 文学的な表現なら、例えば「秘すれば花。」とか「東京は穏やかな化け物。」とかであれば、ありだと思う。
あと短く「バレエダンサー。人は人生の・・・」とかなら、これもありかな。リズムをつくるし、ある種の唐突さがなんだろうと思わせる効果がありそう。 

たまたま手元にあったコラムの名手って呼ばれている人の本をめくってみると、体言止め始まりの文章は約180編中、2、3本かなあ。

説明する機能を重んじるような文章の場合、体言止めを使う理由は薄いかな。
 杓子定規に駄目だと言っているわけではないです。


tajima
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